さぬき麺業の歴史 寝ても覚めても、うどん 麺業三代八十年の歴史

川岡村の手打ち名人香川菊次

私の祖父香川菊次は香川郡川岡村(現川部町)で島屋という醤油屋に勤めておりました。若い頃からうどん作りの名人だといわれ、大正15年にうどん店「香川屋」を始めました。
父の政義は大正10年生まれで子供の頃から祖父のうどん作りを手伝い、尋常小学校高等科卒業もそこそこに家業の「香川屋」に入り、祖父菊次の頑固で厳しい指導を受け名人といわれるようになりました。

「うどんは生きもんや、わかっとんか」厳しい修行

戦後は食料統制の下で祖父とともに細々とうどん屋を営んでいました。
私は昭和22年に政義の長男として生まれ、遊びたい盛りの小学校3年の頃には
忙しい時などは朝の2時には家業である香川屋の手伝いをさせられていました。大学に行き高松を離れるまで祖父と父親の本当に厳しい修行が続きました。

足ふみ禁止令と苦難

東京オリンピック頃から「さぬきうどん」も有名になっていきましたが、食べ物を足で踏むことが問題になり「足ふみ禁止令」が出ることとなりました。そこで組合員が集まり機械打ちのうどんを作る「さぬき麺業」を立ち上げましたが、「足ふみ」は全面禁止にならず「さぬき麺業」からうどんを仕入れる株主はありませんでした。父は社長をしていたものですから、財産を投げ打ち質屋通いまでして頑張りましたが資金が続かず、もはやこれまでと廃業を決意しました。

躍進

私の卒業の年、昭和45年大阪万博が開催され、東京のすし屋「京樽」が万博に出店することになり、「うどん」常駐の職人1人をと依頼されました。私は就職も決まっていたのですが、会社には人もなく白羽の矢が私に当たりました。これが最後と出店したもののなんと1日に7千玉から8千玉も売れる大繁盛でした。
万博が終わり、その経験をもとに塩上町にセルフ店を出しました。車社会になりジャンボフェリーに出店させてもらい市内にも店を増やすようになりました。その頃父はお土産用の「半生うどん」を開発し全国に「さぬきうどん」を普及させることが出来るようになりました。
その後瀬戸大橋博にも出店し好評を博しました。やっと苦労が報われ「さぬきうどん」の礎が築かれたように思います。

寝てもさめてもうどん

父と私は、死ぬ直前まで「うどん」の事で喧嘩ばかりでした。今、その私は店の職人に祖父や父と同じように「うどんは生きとんぞ、わかっとんか」と毎日のように言い続けています。
「寝てもさめてもうどん」です。うどんを肌で感じ、自分の肌をうどんに伝える。
讃岐の地にうどんを愛する心と技術を伝えなければならないと思っています。

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